祖母のこと

IMG_9952
実家に帰ったら母に持たされた祖母が使っていた(らしい)大皿。

なぜ母が突然 この皿を渡したのか意味を考えてしまうのだけど(母はいたって元気です)、一昨日のカタカムナで自分のルーツを考える時間があったこともあり、祖母のことを書いてみようと思います。

祖母は明治40年12月14日誕生。横浜生まれ、横浜育ち。

祖母の父(=わたしの曽祖父)は陸軍士官学校の教官で、祖母はいわゆる「お嬢様」だったようです。曽祖父の帰宅時には家族全員が玄関で三つ指ついて出迎るような家だったと聞かされたました。

少女時代 どういう訳だか名古屋に移り、親戚宅で下宿する形で名古屋のお嬢様学校 金城学院に入学。確か金城学院の2期だか3期生のはずです。

お嬢様街道を歩いていた祖母ですが、学生時代から「働く」ことに憧れていたらしく卒業後は名古屋市内の銀行に就職しました。

昔話を聞くと、働いていたときは楽しかった、とよく話してくれました。仕事で悩んだことがあると枕元にメモを置いて寝るとよく言ってたかな。

寝るとよいアイデアが出るのがその理由だそうです。

なので、わたしが就職後 仕事で解決策に悩んでいると「とにかく寝ろ」と言ってました。

また、実益重視で、わたしたち姉妹が書道やそろばん塾へ通うのは賛成でしたけど、ピアノなどの習い事は「なんにもならないから無駄」と母を諌めていました。

あ、うちは祖母と同居でした。

銀行で働いた後、祖母は愛知県瀬戸市で陶芸を営む祖父と結婚して一旦は東京に転居します。

3男2女を出産後、理由は知りませんが現在 わたしの実家である多治見市に移り、そこで一生を過ごしました。

卒業した金城学院がカトリックの学校で外国人の先生もいたせいか、海外が身近のだったと思います。長男、長女(わたしの叔父叔母)はブラジル、ドイツの移民として日本を離れています。

次女はなぜか修道女。わたしが子供の頃、祖母に「なんでおばさんは修道院に入ったの?」と聞いた時、祖母は「それは言えない。墓場に持っていく話」と答えたので、それ以上 聞いたらいけないんだと幼心に思ったことを覚えています。

多治見市に居を構えた祖父と祖母。祖父の商売(陶芸)は芳しくなく、経済的には大変だったと言ってました。

祖父は戦後まもなく他界。

不思議なことに祖父は他界後 評価が上がり、生きていれば初めての人間国宝に選出されたであろうと言われたそうですが、祖母は「死んでから言われても全く意味はない。お金にもならないし」と言う思い出には浸らない現実的な人でした。

そして祖父が作った作品は全て当時 困窮する家計のために食べ物と交換していたので、実家には残っていません。

祖父が亡くなり、家計は更に大変だったようですが祖母は多くは語らなかったな。

当時は片親だと就職や結婚も大変だったみたいで、父や父の弟は特に就職活動がとても大変だったようです。

わたしの父と母は夫婦関係が本当に悪く、母は何度も離婚を考えていましたが、その度に祖母が「子供たち(=わたしたち)の人生がむちゃくちゃになる」と諌めていたのを覚えてます。

お姑さんにそう言われた母は母でとてもストレスフルだったようですが…。

祖母にとって、わたしは最初の内孫でとても可愛がってもらいました。母が3交代制の看護師だったこともあり母が夜勤の日などは幼稚園から帰るとわざわざ1時間半かけて名古屋・栄のオリエンタル中村(現 名古屋三越栄店)に連れてってもらったりしてました。

わたしが進路で両親とぶつかれば、いつもわたしの味方をして両親を説得してくれました。

わたしが就職後 夜中に帰宅しても母がいなければご飯を作ってくれる人でした。

わたしが横浜出身の夫と結婚するときが決まったとき、とても喜んでくれました。

残念ながらわたしたちの結婚式には既に体が弱っていて参列できず、写真だけ見せに実家に帰ったときにはベットから起きて「よかったね。よかったね。きれいだね」と言ってくれたことを覚えています。

祖母はわたしが結婚して1ヶ月後の2014年11月 96歳で亡くなりました。

祖母が亡くなる直前 仕事の都合をつけて病院に見舞いに行ったとき、意識はほぼ無く、手を握る力もそんなになかったはずなのに「ぎゅっ」と手を握めてくれたことが忘れられません。

祖母の手は骨骨しくて硬かったのにその時の祖母の手はとてもむくんでいました。

わたしは早々にお見舞いを終えてしまって、祖母はもっと一緒にいてほしかったのだろうと思い返すとあの時間をもっと長く過ごせなかったことは、祖母が他界して10年たった今でも後悔しています。

祖母は都会生まれ都会育ちの人らしく、とてもハイカラな人でした。

今では普通かもしれませんが昭和50年代 田舎のおばあちゃんなのにサングラスしていたり、タバコも吸っていたし、洋服は派手な柄・色が多かった。

女学校時代 大正後半〜昭和の初めに「テニス」をしていたらしく、年老いてからご老人の間でゲートボールが流行ったとき「テニスをしていた人がゲートボールなんてできるわけないでしょ」なんていう人でした(笑)。

都会育ちのプライドか?「群れる」こともしなかったなあ。

思い返すとおもしろいおばあちゃんだし、自分を生きた人だなあと思います。

そんなことを思い出し、思い返した祖母の話でした。

今日は久しぶりに祖父と祖母が眠るお墓にもお参りができました。いつもわたしの味方だった祖母。今でも空からも見守ってくれているんだなあと思った1日でした。

 

 

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中